高校時代まで
福島市で生まれたわたしは、高校を卒業するまでの18年間、ずっと郷里で過ごしていました。
生まれたときには父方の祖父はすでに亡くなっていましたが、祖母や母方の祖父母、それに多くの親戚に囲まれて、非常に可愛がられて育ちました。
運動は大の苦手で、小さい頃は家の中で絵本や図鑑を読んだり、ロボットのおもちゃで遊ぶのが大好きでした。
外で遊ぶのは嫌いではなかったのですが、早生まれということもあってか、体力がまったくなく、走るといちばん遅いし、力はないし、体育はお情けで「2」とか「3」ばかりでした。
典型的な「勉強ばかりの生徒」であったわけです。
福島大学附属中に進学したのですが、どうにも全体の雰囲気になじめず、あまり良い思い出は残っていません。
高校進学の際も、体育の成績が芳しくなかったので、学校推薦はもらえず、一般入試で県立福島高校を受験しました。
ところが、この受験で県全体の1番の成績を取ったことが、その後の転機になります。
高校時代
高校では、入試で1番だったので、自動的に学年主任の先生が担当する1年1組に配属されました。
そこで一生の恩師、浅野嘉尚先生に出会います。
この先生、数学担当の方なのですが、もともと熱血の柔道指導で有名な方で、会津の農林高校とか、川俣高校とか、およそ進学校とは無縁の教員畑を歩んでこられた先生でした。
そんな浅野先生は、「細かいことはわからないから、お前らの好きなようにやれ!」というのが口癖で、生徒の夢とか自主性を最大限に尊重してくれる方でした。
(不器用なところもたくさんありましたが…)
進学校の先生というと、生徒に対抗意識を持ったり、どこかひねくれていたり、自分の指導実績を殊更に自慢したりする方が多いイメージですが、この先生は、「実績はすべて生徒の手柄、俺は応援するだけ」の姿勢を貫かれていました。
授業中に脱線してする話も、やれ東大に何人入れたとか、そういう話題ではなく、会津の農林高校で不良を押さえつけたとか、家出しそうな生徒を説得したりとか、調理師になりたいという夢をもった生徒を全力で支援したりとか、この方は、本当に生徒を信頼して、生徒のことが大好きなんだなあという気持ちがありありと伝わってくるものでした。
そして、常に生徒のことを第一に考えて、わたしも含めて、多感な時期にある教え子を、周囲の雑音からかばってくれました。
もし自分が先生と同じ立場だったら、決してできないようなことまで、尽力してくださる方でした。
学校の先生になろうと思った原点は、この浅野先生との出会いにあります。
わたしは成績がよかったので、「お前は東大に入って他の生徒に勇気を与えなきゃならん」といわれていました。
「同じ内容の授業を受けている他の生徒にとって、模試などで上位の成績を残すことはこれ以上ない励みになるんだぞ」とおっしゃり、背中を押してくれたのです。
中学時代まで、勉強はできるけど他はさっぱり…だった自分にとって、自分の頑張りが、少しでも友達の励みになるんだと聞かされたわけです。
本当かどうかはともかく、あまり自信のない子供だった自分にとって、その感激はひとしおでした。
高校の同級生には、複雑な家庭環境を抱えた人や、難病に苦しんだ人もいました。
先生は、わが身を削ってでも、そうした教え子のために、尽力されました。
その姿を間近でみて、わたしは、家族とこの先生のために頑張ろうと、心に誓いました。
生い立ち(2) につづく