生い立ち(3)

東京大学助教として

研究に関係する部分は、研究への考え方をご参照ください。

助教の3年間は、とにかく研究成果をあげることが第一目標で、それ以外は、実に気楽に過ごしていました。

なにか特別な仕事があるわけでもないのに、研究をするだけで給料がもらえるなんて、夢のようなうまい話があるわけがない……と思うところですが、本当にこの3年間は、研究をしているだけで許されるのです。

もちろん、行政判例研究会(行判)その他の研究会の幹事をまかされるなど、それなりに仕事はあるのですが、さっさと終わらせてしまえば、大したことはありません。
少なくとも、研究への支障はほとんどありません。

ただその代わり、「仕事や雑用が忙しいから研究成果が挙げられませんでした」という言い訳は、一切ゆるされない世界です。
3年間で研究成果が挙げられなければ、それで研究者としてはおしまいなわけです。
脱落する方も、つねに一定割合います。

このしくみ自体は、戦前から連綿と続いているのですが、法科大学院が設立されてから、学部卒の助教採用は原則として行わないことになり、法科大学院で一定の実定法の素養を修得してから、助教に採用される制度になりました。

この、「仕事を任せずに研究に専念させる」というのは、一切を自己責任にゆだねて、言い訳を許さないシステムです。
その上で、3年間で就職論文となるまとまった研究成果を出させて、大学のポストに就けてあげよう、というわけです。

あとからわかったことなのですが、若い時のある時期にまとまった研究をした経験がないと、年を取ってから、どんなに思い立っても、研究論文を書くことはかなり難しいようです。

そのことを、後になってから個々人が身をもって知るのではなくて、若い時に、研究者としての駆け出しのタイミングで、有無を言わせず、将来のための業績を――自己責任で――提出させる、というのは、本当によくできた、厳しいけれど愛情にあふれたシステムだと思います。

国土交通省へ

国土交通省とのご縁は、行政実務家として、国交省から東大に島田明夫教授が招かれたことから始まります。

ひらたくいえば、助教の任期修了後の就職先がみつからなかったこともあり、(東大の研究員や非常勤講師という選択肢もあったのですが、それよりは経験を積んだ方がよいとのアドバイスを受けて)平成22(2010)年4月から、1年間の任期で、国土交通省住宅局に勤務しました。

もともとインフラの整備には大いに関心があり、これを機会に、知識や人脈を増やそうという前向きな目的があった反面、受け入れる当局にとっても、受け入れられる自分にとっても、先例のない試みであったため、試行錯誤の連続というところがありました。
(折から、先年の「政権交代」により、霞が関のあり方がこれまでと大きく変容していたのも、運が良かったのやら悪かったのやら…)

役所の仕事で感じたことは、とにかく最新の情報が、全国から適時に入ってくるものだな、ということです。
いわば政治家が丸抱えしている巨大なシンク・タンクのようなものです。
このシンク・タンクを上手に使わないで、思い付きの「政治主導」をふりかざしても何もうまく決められないよなぁ、と思いました。

また、上意下達のシステムが厳格に構築されていることも、印象深いものでした。
巷で「霞が関官僚の抵抗」などと揶揄されていますが、実際に中に入ると、全くそんなことはなく、政治家のいうことには絶対服従を強いられる(気の毒な)霞が関官僚の姿を目の当たりにしました。

そのこととの関係で、課長や直属の上司のパーソナリティ次第で、仕事場の雰囲気がガラリと変わるということも(民間企業でも、この点は同じだとは思いますが)印象深かったです。

最初に仕えた課長が、島田先生の御友人でもあり、人格・能力共にたいへんすばらしい方で、課内の雰囲気も大変良好だったのですが、省内のすべての部署が、このように上手に運営されているわけではないのだなとあとからの経験で思い知らされました。

島田先生は、その後、政策研究大学院大学を経て、現在は、東北大学公共政策大学院で御活躍中です。
かつて内閣府の危機防災管理室で、三宅島の噴火や東海村JOC臨界事故の陣頭指揮を執られた経験を生かして、これから社会に出て東北の行政実務の最前線に立とうという学生のみなさんに向け、被災地の復興のための理論・実務を教えておられます。

そのご縁で、都市住宅学会や日本不動産学会など、国交省と繋がりの深い学会にも入会を認めて頂きました。

これからも、こうしたご縁を大切にしていきたいなと思います。

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